ピカソと春画
写実的に絵を描こうとするとき、透視図法的に物を見なければならない。
これは右を向いたり、左を向いたりせずに視点を固定して見るということだ。
単純に言えば写真を撮るということに似ているか。
ただ、写真は撮影条件によって歪みが生じる。
ヒトが絵を描く時は、この歪みを自然な見え方になるように脳を使って修正している。
ここがカメラと大きく違う。
視点を固定せずに様々な方向から見た像を組み合わせると、ピカソになってしまう。
と同時に、絵は平面的になる。
前から見たところ、横から見たところを再構成した画面がピカソなのだ。
つまり、スピンショットを一枚にしたような表現で、対象に対して一定の距離を保ちながら見る方向を変えて描いていると言える。
これに対して、日本の春画は見る方向を変えていない。
局部が必要以上に大きく表現された作品は、この見方に当てはまる。
ズームインとズームアウトを一枚にまとめたような表現だが、春画には当然必要なカメラワークだ。
単純に言えば、江戸時代のエロ本なのだから、男心にしっかり寄り添った表現と言える。
当時の男たちは、一枚の作品の中で全体を見たり部分を見たり・・・と楽しんだのだろう。
ピカソにしても春画にしても、写実的な見方にとらわれていては達することのできない表現だが、凡人はどうしても縛られてしまうんだよなぁ・・・。